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19世紀なかば、馬弔を代表とするカードゲームと天九牌系の骨牌ゲームが融合して麻雀が誕生したことはこれまでに述べた。この時代、日本は明治維新を介しておおいに海外と流通していった時代である。麻雀も当然、それら海外に雄飛した人々の目にとまり、中にはプレイした人もあったと思われる。

日本に麻雀を紹介した最初の記として有名なのが夏目漱石の「満韓ところどころ」であることは知る人は少ないであろう。これは夏目漱石が中国を歴訪した際の紀行文であり、中国人が4人で卓を囲み、麻雀を楽しむ姿が描写されている。

夏目漱石が日本に麻雀を紹介した明治42年と同年に麻雀牌が日本に初上陸する。持ち込んだのは日本語と英語の教師として中国四川省に赴任していた人物で、麻雀牌を携えて帰国後、同僚や生徒らに熱心に麻雀を教えたようだ。

大正期になると中国大陸で麻雀を覚えた人々が日本で麻雀を普及するようになる。このような時代、まず麻雀に飛びついたのは文人、そして上流階級の人々であった。大正12年新宿区牛込神楽坂で営業したカフェー「プランタン」は店主(松山省三)が画家であり、妻の松井潤子も女優ということで、多くの画家、俳優、文人、墨客が出入りしていた。この店へ洋行帰りのお客がが上海で買った麻雀牌を持ち込んだ。ここに文人、上流階級らが集い、麻雀を大いに楽しんだ。これを世にプランタン時代と称する。このとき指導を受けたメンバーが後に日本麻雀界の指導者となったのである。

幾多の先人たちの努力にもよって、関東大震災(大正12年)以降、麻雀はしだいに一般に知られるようになった。しかしブームとして大流行したのは昭和に入ってからである。 大正13年(1925)の夏、東京麻雀会が旗揚げした。昭和2年(1927)10月には「麻雀春秋」を創刊、昭和3年には銀座に移転して東京麻雀倶楽部を設立、昭和4年にはこれを日本麻雀聯盟と改称した。

日本初の麻雀荘は大正13年に東京、芝に開かれた。「南々倶楽部」といわれるが、昭和4年(1929)には1521軒、翌5年には1712軒を数えるほどになった。このような時流の中、国民新聞社の後援により日本麻雀聯盟主催第一回全国麻雀選手権大会が昭和6年3月21日に開催され盛況であったという。

こうして麻雀は第一次のブームを迎え、多くの麻雀団体が結成されたがルールは各団体まちまちであった。そこで昭和3年3月25日、東京麻雀会で日本初のルール協定委員会が開かれ、これを受けて翌昭和4年4月11日、丸の内の大阪ピル内のグリル「レインボウ」で各団体の代表が集合しルール統一会議が開かれた。そして符底20符、門前清加符10符、満貫500点など、今日のルールの基本が決定された。これはレインボウ会議と称され、日本麻雀史の一頁を飾るエポックメーキングな会議であった。

その後、日本麻雀聯盟は昭和7年(1932)に実業麻雀聯盟(代表・杉浦末郎)、本郷麻雀会(代表・高橋緑鳳)、昭和麻雀会(代表・前田清)、日本雀院(代表・榛原茂樹)など、各地の麻雀団体と合併し、大日本麻雀聯盟となった。

しかし麻雀はもともと博打として遊ばれたゲームであり、日本に輸入されたあとも人々は金品を賭け、雀荘もトップ賞として高額な景品を提供した。このため昭和8年頃から警察による取り締まりが厳しくなり、さらに戦争の広がりとともに軍部の圧力もあって麻雀荘は漸減していった。そして昭和15年頃にはあれほど隆盛を誇った麻雀荘も皆無となった。

戦争中、衰退していた麻雀は、リーチ、ドラという新ルールとともに急速に復活した。リーチ、ドラは意外にも中国からの伝来ではない。日本独自のルールなのである。

戦後、麻雀荘の営業が許可され、以後雀荘の開業が相次いだ。昭和22年には日本麻雀連盟も再建されたが、リーチ、ドラを取り入れた新ルールが大いに普及した。
『麻雀放浪記』の連載があり、日本テレビの人気番組、大橋巨泉司会の『11PM』で麻雀を放映してたのはもう随分前のことだ。 最近では国際線の飛行機の中でもゲームとして麻雀が楽しめ、移動時間は退屈しなくなった。インターネットでも顔も見たことの無い相手と麻雀が楽しめる時代だ。麻雀は「やくざの賭博」というイメージから大衆ゲームとして定着し広く親しまれているのである。

当初、中国式ルールで遊ばれていた麻雀は大正から昭和にかけて普及するにつれ、次第に日本式ルールへと変化していった。門前清加符の制定もその一つであるが、大きなルール変革はサイド精算の消滅と放銃一人払いであろう。

符底
点数計算の苦手な人は何を言っているか判らない文章であるが、符底とは得点計算の基礎となる基本符である。中国古典麻雀では一翻しばりというルールは無いので平和(ピンフ)で上がった場合、基礎符が無いと得点がゼロになる。そこで上がり賃としての符底が存在した。 その頃の中国では10、20、40、60符底のルールがあったが、全体的に20符底が主流であり、我が国に伝わって主流となったのも20符であった。この基礎点を中国本来の術語で現すと「20符底(アルシーフーテー)」で、アルシーアル麻雀と呼ばれるようになった所以である。

サイド精算の消滅
サイド精算とは和了があった時、上がらなかった者同士が、互いの未完成状態の手の状況をもとに点数精算をするものである。 麻雀が伝来した当初はサイド精算も含めてルールはすべて中国式であったが、サイドは計算が面倒なこともあってしだいに変化し、昭和6年頃には消滅した。

放銃者一人払い
今では当たり前のように放銃者が責任をとって全額を払うが、中国式ルールでは摸和、栄和にかかわらず三人払いであった。昭和5年頃になると一般麻雀において栄和は放銃者払いというルールが急速に普及していった。この栄和放銃者一人払いというルールがなぜ日本で登場したのか定説はない。一説には花札の八八から、一説には他者の行為が自らの失点に繋がるのが日本人の国民性に合わなかったとも言われるが、実際のところは不明である。
この放銃者払いルールはサイド精算の消滅とともに麻雀の技法に極めて大きな変革をもたらした。すなわち放銃による失点はすべて自己責任となり、それが危険牌/手筋の検討を必要として、プレーヤーの独立性が高いゲームへと変貌したのである。

立直(リーチ)の誕生
中国麻雀には第一打牌による聴牌宣言(日本のダブルリーチ)が存在したが、ゲーム途中の聴牌宣言は存在しない。日本でなぜリーチのルールが誕生したのか定かではないが、昭和5〜6年のことと考えられている。
このリーチのルールは当初は主流ではなかったが戦後になって爆発的に広まった。このリーチルールを体系化し普及に尽力したのは天野大三氏であり、リーチ宣言牌を横向きに捨てるというのも氏の考案によるといわれている。

振り聴ルール
日本麻雀が中国麻雀と大きく異なるもう一つの点は振り聴ルールである。中国式では互いの捨て牌はその場で確認され、チー・ポン・ロンがなければ卓の中に放置され、浮屍牌となる。浮屍牌は誰にも帰属しないので、自分が捨てた牌でも出れば栄和できることになる。 日本でも当初は中国式であったが、やがて栄和放銃者払いルールが普及すると、いわゆる振り聴上がりは排斥されるようになった。すなわち以前に本人が捨てた牌で栄和されると放銃者は釈然としない。そこで放銃一人払いに少し遅れて振り聴ではあがれないというルールが登場した。こうなると、それまでのように各人が卓の上にばらばらに牌を捨てるわけにはいかず、各自の手牌の前にきちんと捨て牌するようになった。

以上のように、放縦一人払い、リーチ=門前清重視、振り聴上がりの禁止=捨て牌の整理の3点は日本麻雀が競技性を有するに至る大きな変革であった。